たまには際どい話。

最終巻の執筆は少し遅れてますが順調です。どうやら、笑顔で皆様にお会いできることになりそうです。
さて、本日はちょっと真面目かつ、際どい話。あんまり政治的な話は避けようと思っているのですが、今日はあまりにも腹に据えかねたので、ここに書きます。

寝坊して起きだし、カレーを食べながら、朝日新聞を開く。本当は毎日新聞東京新聞がいいのだが、我が父がもう長年朝日新聞を読んでいるから、多分変わらないのだろう。
とまぁ、我が家の事情などはどうでもよい。
私はどういう訳か投書欄を一番最初に読む。そしてからスポーツ欄を読む。朝、時間がないときは、大抵このパターンである。
というわけで、今日も投書欄を見たが、その時信じられない投書を目にした。いや、正直に言えば朝日新聞の投書欄は読んでいると?の連続である。だが今日の投稿は、さらに信じられないものであった。
簡単に要約すると以下の通り。
「司書が特定の筆者(物議を醸している、新しい歴史教科書をつくる会の関係者)の図書を破棄した事件に触れた社説が15日にあった。図書の破棄は認められるものではない。だが、自分はこの司書と会ったことがあるが、よい司書であった。子供と良書のことを思った末の行為だったのだろう」
大激怒である。
投稿者は22歳の女性だったが、絶対に見過ごすことができない投稿である。投稿者はこの司書のことを知っており、庇うための発言だったようだが、これは即ち、「言論の封殺」を認める発言に他ならない。
例えばこの司書が、破棄した本を問題と考えていたとしたら、むしろ利用者に読ませるべきである。そして、読ませた上で、その意見とは全く反対の本を提供し、「この本についてどう思うか」という議論を広げるべきである。その上で、破棄した本について「この本は正しくないと思う」「この本は正しいと思う」という意見を、利用者に持たせるべきである。
それをせずに、「自分の良心に従って」本を破棄する、それは利用者を司書の持つ意見に従わせようとしていると言われても反論できまい。百歩譲って、「正義感による行動」だったとしても、「ではその本を見せてはいけない、という正義の基準はどこから来るのか」という問いに、答えられまい。この司書の行為は、精神の自由を認めた憲法に違反しており、投稿を行った22歳女性は、憲法違反の人間を擁護しているわけで、絶対に看過できない*1
さて、この投稿者の意見の元になった15日の社説とはどんなものか? 早速古新聞入れを漁り、15日の新聞を取り出した。さぁ久しぶりに朝日新聞をぶっ叩いてやるぞ、という妙な意気込みを持って社説を読んでみたが・・・
「集められた本に不満を持つこともあろうが、定められた手続きで選ばれた本を司書の勝手な判断で破棄することは認められない。朝日新聞としてはつくる会教科書は正しくないと主張してきたが、だからといってその関係者の図書を破棄していいとは思わない」
実にまっとうな意見である。朝日新聞のことだから色々理屈をつけて、この司書を庇っていると思ったが・・・。正直肩すかしである。ここ数年朝日新聞がまともになっている(裏を返せば色がなくなっている)傾向が、ここでも反映されているのだろうか?
どんな意見でも、発言してはいけない状況に持って行ってはいけない。発言をして、その上で討議を重ねるべきである。
と、思う。

*1:現状の憲法についての意見表明は、ここでは避ける。だが、精神の自由、基本的人権の尊重、象徴天皇制などは、今後も護持するべきであると思っている