シスプリ後の世界

赤木は三月後半ぐらいから株式をやり始めたが、今、市場の中で「萌え」という言葉を聞かない日はない、という状況にいささか驚いている。その先頭に立つのがガンホーオンラインエンタテイメント。3/9に大証ヘラクレスに上場して以来、一株2000万円(!)を超える値を付ける大フィーバーとなった。また、ブロッコリー(あのキャラグッズのブロッコリーである)は、株価が二日で4倍以上に飛び上がり、市場の話題をさらった。両方とも、日経平均株価が下がり続けるという状況の悪い4月中の出来事である。
背景にあるのは「萌え」である。この萌えという言葉、このところしょっちゅう株式関係の記事に登場してきて、私は目を丸くしている。背景には、私が先日取り上げた「萌え市場は巨額な経済効果」というあの研究結果がある。相場全体の勢いが失速する中、勢いがあると報道された萌え関係の企業に、ヤケクソ気味に資金が集まってきたのではないか、というのが、相場を始めて一ヶ月の私の考えである。
このように、アニメゲームファンの手の離れたところで突然動いている「萌え」という言葉だが、これについて考察した非常に面白い本があったので是非紹介したい。堀田純司萌え萌えジャパン」(講談社)という本だ。この本は「萌え」とは何か、ということを問いつめるため、メイド喫茶等身大フィギュア、アイドル、声優などの関係者に取材を重ね、今、日本のマニア界がどうなっているかを解き明かした力作である。キャラクター重視の話が出てきたり、「ときメモ」がいろいろな意味でスタートになったという論調が書かれている。手前みそながら、拙著「センチの旅」と通じる部分も多々あり、我が意を得たり、と赤木は少し得意になっている*1。「センチの旅」が面白かった諸兄には、是非お勧めしたい一冊だ。

(以下が今日の本題。今日は少し長いです)

さて先日は何となく「萌え」という言葉が氾濫しすぎる状況に少しばかり苦言を呈したが、その後よく考えると、これって書こうと思っていた「シスプリ後の世界」に通じるものがあるなぁ、と思い始めた。それは、この「萌え」という言葉そのものが、極めてキャラクター中心主義的な考え方を含めているからである。例えば、「ToHeart萌えるよね」とはあまり言わない。「マルチ萌えるよね」*2というのは感覚として正しい。つまり「萌える」という言葉は、ゲームではなくキャラクター、さらに言えば男性が求める女性的な記号*3を指す場合が多い。
この時考える必要があるのは、「ToHeartとマルチは切って切り離せるのか」という問題である。「センチの旅」では、ユナ、ときメモ、センチまでは、ゲームとキャラクタは切り離せない(切り離せなかった)、シスプリになって、ゲームはキャラクタの登場する一部分にすぎない、という論を展開した。この流れの中で、私はゲームからキャラクタが独立、解放されることが進歩的であるという基本的論調を貫いた*4
だが、ゲームから、あるいはアニメから、キャラクタが独立することは、果たして手放しで喜んでいいものなのだろうか?
筆者は4/3蒲田終了後、秋葉原とらのあなに寄って少しギャルゲーム雑誌を眺めていた。あれだけ売れて盛り上がった直後である。当然続編を、と頭にかすめたのは事実だ。だが、雑誌を見たり、JH君*5と話をする中で、「もうセンチの旅の続編は書けない」という結論に達した。それはなぜか。ゲームとキャラクターという関係性から分析できるのは、「シスプリ」までが限界だからと考えたからである。
これまで、キャラクターというのはアニメなりゲームなりの登場人物であった。藤崎詩織は「ときメモ」の登場人物である。そこを絶対的なベースとして、藤崎詩織は成長していった。その「ときメモ」には他にも12人のキャラクタがいる。同じベースを持ったキャラクタが、それぞれのファンを獲得し、大爆発していったのが「ときメモ」であった。
対して「シスプリ」を見てみよう。「シスプリ」は本来は、読者参加型企画のキャラクタであった。つまりこの時点で、「ときメモ」とベースが全く異なるのである。敢えて言えば、「G'sマガジンの読者参加企画」というベースになるのだろうか。これはゲームという商品と比較とすると、かなり曖昧な定義付けである。「シスプリ」のゲームやアニメは、ここから派生していく。これはキャラクタ中心構造の完成形であると私は書いた。
先ほどから「ベース」という言葉にこだわっているが、なぜかというと、「ゲームなりアニメなりのベースから完全に独立したキャラクタは存在できるのだろうか」と考えるようになったからである。前述したとおり、赤木はゲームからキャラクタが独立することを先進的と考えていた。だが、それが実現された今、逆にそれは、ライトユーザにとっての「入り口」をなくすことになりはしないか。
90年代は、「入り口」が豊富にあった時代であった。それは「セーラームーン」であり、「エヴァ」であり、「ときメモ」であった。これらに共通するのは、「作品として面白い」点である。これは、それまであまりマニア世界に興味のなかったユーザにも抵抗なく受け入れられるために重要である。「俺はギャルゲーには興味なかったけど、ときメモは面白くて好き」というライトユーザが生まれる。このように、入り口があることで、ファンはキャラクタへのとっかかりを得ていく訳である。
ところが現在は、この「入り口」がなくなりかけている。別の言い方をすれば、「入り口の敷居が高くなっている」と考える。あまり知識のない人を相手に、「ときメモっていう面白いゲームがある」という話をした場合と、「シスプリっていう盛り上がっているキャラ企画がある」と言った場合、どちらが抵抗なく受け入れられるだろうか。いや、どちらも怪訝な顔をされるという回答はなしということにしてほしい。その場合、「ゲーム」というベースがある前者の方が、知らない人にとっては興味を引くのではなかろうか。知識のない人相手に、いきなり「キャラの魅力がどうの」という話をしても引いてしまうだろう。「キャラ重視」は知らない人には理解しがたく、敷居が高いのだ。かなり。
敷居が高く、新規ユーザを受け付けなくなるとどうなるだろうか。私はマニア界の少子高齢化が進んでいくのではないか、と漠然と考えている。今の中高生達に、「入り口」となる作品はあるだろうか。少なくとも、「ときメモ」のような、誰でも分かる形での作品は、今はないと思う*6。今は、共通言語のようなビッグタイトルがない時代である*7
以上から、ライトユーザは今後どんどん減っていくと思われる。今後はライトユーザが離れ、コアユーザが自分で見つけ出したキャラクタ(作品ではない)を小さな集団で応援していくような形で業界は進展していくのではなかろうか。
ゲームからキャラクタが独立した「シスプリ」。だが、今はさらに一歩進み、キャラクタが独立しすぎて、初心者お断り状態になり、コアユーザが主役となって多数のキャラを応援している。要するにこれは多様化である。一つの作品が絶対的な力を持つ時代は過ぎ、ファンが多様化した作品をそれぞれ好きになる。その意味では、キャラクター市場は成熟しつつある。
そうした「シスプリ後の世界」を、赤木の「キャラクタとゲームの関係性」というモデルで解説することはもはや不可能である。よって、残念ながら、続編は私にはまとめきれない。


支離滅裂な長文を読んで頂いた皆様には、深く感謝致します。何かお気づきの点がありましたら、ご連絡ください。


それにしても・・・いやはや、遠くまできたものだ。

*1:同時に、調査研究ものを書くなら、これぐらいやらないとカネは取れないよなぁ、と反省もしている。センチの旅をお買いあげ頂いた皆様、誠にありがとうございました。

*2:萌えの項でたびたび赤木がマルチを例として取り上げるのは、赤木の考えでは、マルチがいわゆる「萌えキャラ」の元祖と考えているからである。最も、「萌え萌えジャパン」によれば、もっと前にも登場しているとのこと。

*3:これは「萌え萌えジャパン」の解釈である。この本によれば、本来「萌え」という言葉が持つ定義が、赤木の考えている定義と大きく異なり、もっと概念的なものであるというのである。赤木の考えている「萌え」の定義は、この本によれば、「感嘆詞に近い」ものであり、「萌え」という言葉本来の持つ意味とは少し違うそうだ。若干の異論もあるが、なるほど、と頷いた赤木である。

*4:そうすることで、センチメンタルグラフティのキャラクタの魅力を訴えたかった

*5:たびたび登場しているので解説の必要もなかろうが、以前光と共にありてシリーズのイラストを担当してくれた友人。赤木の同人の先生

*6:これは赤木だけでなく、多くの人の意見である。多くの人が、みんなで集まって大騒ぎするのは、「ToHerart」や「シスプリ」または「センチ」が最後でしょう、という思いを持っている。

*7:これが女性向けになると、少し話が違ってくるのでは?というのが「ハガレン」のヒットをみた感想。だが、赤木は女性向けに全く詳しくないため、ここでは徹底的に男性向けけということで話を進める