これは革命的な一冊だ

現在、作業は順調。一週間で400字詰め原稿用紙50枚を書き上げた。調子がいいのかキャラがいいのか、紙の上で、キャラが踊っているような感覚さえ受ける。二次創作、楽しいかもしれないぞ、と思い始めた今日この頃。
さて、今日は本を一冊紹介。先日秋葉原ヨドバシカメラ7階*1有隣堂で購入した、本田透萌える男」(ちくま新書)である。これまでも萌えに関する本やニュースを読んで研究を深めてきた赤木だが、この本は、これまで読んだ「萌え」に関する本の中で、ナンバーワン面白いと断言していい。これは、新しい世界を構築する第一歩になるかも、と一人で盛り上がっている。

筆者は、「萌え」について、「脳内で理想的な恋愛を構築すること」というかなり突っ込んだ解釈をしている*2。ここで、「理想的な」という形容詞がついているが、これが後々重要になってくるので、覚えておいてください。
本書の序盤では、「恋愛資本主義」を批判するところから始まる。曰く、80年代後半(つまりバブル景気の頃)から、恋愛は完全にマニュアル化され、そのマニュアルに沿って消費(ブランド品や自動車、レジャーなど)をしているか否かで、男性は採点され、偏差値をたたき出される。だがそうなると、高い偏差値を出せるのは経済力が強い男性のみに限られる。また、「恋愛資本主義」においては男性も女性も「商品」として評価されるため、援助交際やらなんやらも流行り、末期的な状況に陥る、と解説する。恋愛資本主義恋愛偏差値については非常に「なるほど」と頷けるところが多い。モテたかったら、女性が気に入るように消費を行わないといけない、というのは私も感じているところだった。
本書では、こうした「恋愛資本主義」の行き詰まりから、二つのものが産み落とされた、と解説する。一つは恋愛資本主義の負け組となったオタク、つまり「萌える男」と、「純愛」を求める女性である。そして、現代日本において、「理想的な恋愛」を夢見ているオタク男性こそ、「純愛」にふさわしい、と考える女性が増えている。それによって生み出されたのが、「電車男」なのである、と結びつける。
なるほど〜!確かに、オタク男性(筆者含む)は女性や恋愛に対して、強い夢を見ている傾向がある。そして現在メディアに出てくるような女性(本の定義を借りれば、恋愛資本主義のプレイヤー)を苦々しく思っている。だが当の女性が、恋愛資本主義に疲弊し、その癒しとして、純愛を探して、その結果をオタク男に求める、というのが電車男のシナリオなのか。多少強引だが、納得のいく説明だ。
だが本書では、電車男が何度となく批判される。それは、オタク世界で夢を見ていた電車男が、恋愛資本主義者のエルメスによって教育され、恋愛資本主義の立派なプレイヤーとなるというシナリオがダメだというのだ。つまりこれは、「オタク」<「一般女性」であり、「純愛を求めるオタク文化」<「現実社会で男性を商品化する恋愛資本主義」であると。電車男が一般人になるのは、「オタクが疲弊した恋愛資本主義の勝ち組になったに過ぎない」と喝破する。それではいけない、オタクが目指すのは既に意味を持たなくなった恋愛資本主義ではない、と本書では続く。
途中で、「one」や「Kannon」といったゲームを取り上げて、精神分析や宗教的な解説を加える。筆者は哲学科を中退したらしく、やや難しい哲学用語も出てくるが、なんとか読みこなせるレベルなので問題ない。こうした「泣きゲー」によって、自我と社会がぶつかったときに発生する葛藤、ルサンチマンを解消するのが「萌える」男である、と解説する。正直、こうした解説は後から付けた物が多く、当のゲーム作者がそこまで考えているかどうか・・・ただ、エロゲー作者にはインテリが多いのは事実なので、もしかしたら、「one」も「Kannon」も哲学的、宗教学的意味をもっているのかも、しれない。
恋愛資本主義」から落ちこぼれた存在として、「萌え」を持ったオタクがある。その自我を安定させる役割として、「泣きゲー」などのアニメやゲームが存在する、という構図あたりで、赤木は「やれやれ」と少し思った。つまりそれは、「一般的な世界(つまり恋愛資本主義)などを気にせず、オタクはオタクで楽しくやっていければいいじゃないか」というやや引きこもった結論ではないか。確かにオタクな人にはこう考える人が多い。だが、社会で生きていく以上、そういう訳にはいかないではないか。自分一人が楽しければそれでよし、では何も発展しいない。この本も、そんな結論に達するのかな。そう考えていた。
だが、本書は、そんな赤木の思いこみをはるかに超えた結論に向かって論を展開する。
本書は後半から、「シスプリ」について言及し始める。言うまでもなく「妹萌え」についてだが、これは「家族愛」の形だ、と筆者は言うのだ。つまり、妹を愛し、妹から尊敬され、存在を認められることで、自我の安定を図っているのだ、と。「家族愛」はかつて「恋愛」の延長線上にあり、半永久的に個人の自我を安定させることに役に立っていたが、現在は「家族」すらも単なる経済単位に押しとどめられ、理想を失っている。妹萌えは、家族愛を純粋な形で求める姿ではないか、というあたりで、赤木は再び身を乗り出して本を読み続けた。後半では、徹底的に「自我の安定」について語られていく。「社会全体を変革できる」という夢によって自我の安定を図ること(本書で言う共同幻想)は70年代の政治紛争の集結で終わり、「異性、またはその異性と作る家族」が自我を満たす(本書で言う対幻想)は80年代から90年代に「恋愛資本主義」で消費し尽くされた。そして今は、「個人個人が理想的な恋愛、ならびに家族の姿」を追い求める、つまり「萌える」(本書で言う自己幻想)ことで自我の安定を図っているという。その際に登場したのが「one」であり「Kannon」であり「シスプリ」であり「マリ見て」である*3、と結びつけるのだ。つまり、オタクは、人間すべてが商品化され、個となって、経済社会に投げ出さて崩壊しかかっている社会に対し、理想を守り続けているというわけだ。
そして本書は、萌えの心理的効用を何度となく説いた後、「萌えとは、恋愛および家族を復権させようと言う精神運動である」と結論づける。仮に「電車男」のように、オタクがすべて「恋愛資本主義」に取り入れられた場合、個人がすべて商品化される世界は続く。だが、ここで、ポスト恋愛資本主義として、オタクの持つ理想を現実へと反映させようと、力強く結論づけるのだ。
この本は、「萌え」を単に「新たな産業の可能性」「個人的な癒し」というところで終わらず、社会全体を安定させる理想を持っている可能性がある、と主張する点が非常に斬新であり、拍手を送りたい。もちろん「当のオタクはそこまで考えるわけがない」と批判する声もあろう。実際そう思う。だが、日頃から、「恋愛資本主義」の負け組として、日陰者のような気分を持ちながら暮らしてきた赤木にとって、この本は「理想を持ち続けろ」と励まされたようで、非常に楽しかった。筆者には感謝したい。
いろいろと書いてきたが、本書のおもしろさの半分も伝わっていないと思う。興味を持った人は是非、本屋で本を手にとって欲しい。是非!

*1:最近、食料品以外はすべてヨドバシカメラで買っているような気がする。

*2:赤木は現在、「萌え」について、「読者が特定の登場人物に愛情を覚えること」という毎日新聞解釈が一番一般的で妥当かと考えている。

*3:「マリ見て」のスールシステムについて、本書では「対幻想の理想的姿」というような書き方をしている。確かに、スールシステムの互いを尊重する一対一の関係性に憧れる人は、男女問わず多い。