違う世代、違う性別。

まず始めにお詫びというか言い訳というか……「こちら編集部」の「リリアン編集手帳」の更新が滞っていて私も気にしているのですが、今度4/23のサンシャインクリエイションが出るまでは、「こちら編集部」のネタばれ度大の話や、「三奈子の手帳」の話はしたくないと思っています。先に4/2で手に入れた人は早く読みたいかも、と思っていますが、何とぞご容赦ください。
では、本題。


前回も取り上げた久美沙織「コバルト風雲録」(本の雑誌社)の中に、面白い一文がある。若き日の久美沙織がある少年向け小説を読む。その中に、「農地改革で引き裂かれた高校生」みたいな一文があって、驚いたとか。
『のちに気づくのですが、当時、「小説ジュニア」(赤木注:集英社の月刊小説雑誌。のちの「Cobalt」)を執筆あそばしておられたのは、かなりご年配の先生方ばっかり、ほぼ、それ「のみ」だったのです』(「コバルト風雲録」31ページ)
『農地改革?!
この文庫を買った当時高校生だったわたしは、その単語を、歴史の教科書でしか知りませんでした。まさか、それが「いまでも」オノレにとって親身にリアルなものでありうる高校生が存在するとは思っていなかったので(そういう地方ももしかするとあったかもしれないけど)ものすごいショックでした。』(同32ページより)
確かに、年寄りが書くと得てしてそういうものかもしれないなぁ。と、しみじみ思ってしまった。というのは、私自身が、つい最近そんな経験をしたから。
新作「三奈子の手帳〜エースの条件」では、つぼみの妹ができるシーンをいかにキャッチするか、編集部の面々が話をするシーンがある。黄薔薇の特ダネは逃したけど、紅薔薇は大々的にいきたい……そんな雰囲気を表現するときに、私は、次のように書いた。
「第一ラウンドは判定勝ちってところだけど、第二ラウンドはすっきりKO勝ちといきたいわね」
何気なく書いた文だったが、全編書き終わった後、読み返すと、猛烈に違和感があった。
「今時の女子高生が、ボクシングにたとえて話をするか?」
昔大ブームだったボクシングも今は下火。今は亀田興毅のおかげで少し脚光を浴びているが、すっと言葉に出てくるほど根付いているとはとても思えない。だいたいたとえ話するほどボクシング好きな女の子なんているとは思えない……いや、由乃なら言いかねないかも、だけど、普通の女の子は、ねぇ。
ということで、「判定勝ち」や「KO勝ち」といった用語は削除。でも、第一ラウンド云々は残してしまった。どうせならちゃんと消せばよいものを。ちょっぴり後悔。
私はもう高校を卒業して何年もたつし、そもそも女子じゃない。だから、ほんの些細な言葉の使い方とかたとえ話とか、その辺の微妙な感覚が分からない。マリ見てシリーズを書く際、これが一番難しいといつも思っている。その辺もうすこしアドバイスしてくれる人がいればいいんだがなぁ、と思いつつ、少しでもその辺の参考になれば、と原作の最新刊「くもりガラスの向こう側」を手に取る。たまにしか実家に戻ってこない志摩子の兄について、祐巳が何気なくこんなことを思う。
「珍しく、ということは、フーテンの寅さんみたいな人なのかな」今野緒雪マリア様がみてるくもりガラスの向こう側」(集英社
今野先生……ふらりと帰ってくる兄貴を「フーテンの寅さん」と例える女子高生がいるとはあまり思えないのですが……*1
このように、違う世代、違う性別を表現するというのは、かくも難しいことである、と思う今日この頃。

*1:寅さん役を演じた渥美清が亡くなったのが96年。仮に祐巳ちゃんが今17歳だとしたら、彼女が7歳の時の話なわけで……正月は寅さん、みたいな文化が根付いてるとは思えなくて……でも私は寅さん大好きです。